東北工業大学

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留学生の“声”

タナポーン・ラートパゴーンキット さん
(タイ)

タナポップ・トリーティップティクーン さん
(タイ)

段 少陪 さん
(中国)

ワチャラウィット・ジエムジャイサワンルーク さん
(タイ)

アティンシャー・シンボラノント さん
(タイ)

ニカノール・レイネス・ペリル・ジュニア さん
(フィリピン共和国)

ジョン・マイケル・ムガス さん
(フィリピン共和国)

ピーラウィット・ティーラカーン さん
(タイ)

ナットナリー・サミッチメディーン さん
(タイ)

練 瓊 さん
(中国)

周 韜 さん
(中国)

ジェラー・ジミー・パライゾン さん
(ハイチ共和国)

顧 静 さん
(中国)

瞿 思遠 さん
(中国)

サジャ・マニーシュ・カルティク さん
(インド)

パベル・ペニャ さん
(ペルー共和国)

熊 铱 さん
(中国)

タナポーン・ラートパゴーンキットさん

タナポーン・ラートパゴーンキットさん

Thanaporn Lertpagornkit

タイ

(タイ)

知能エレクトロニクス学科
泰日工業大学 交換留学生

仙台で感銘を受けたこと

愛称は、フォーンで意味は「雨」です。
仙台のホストファミリー、先輩、友だちは、皆さん優しくしてくれます。英会話はとても楽しく、たくさんの学生が受講しています。英語を話すのが難しいようですが、皆さん頑張って勉強していることに感動しました。他の授業は、すべて日本語で行われるため、理解することが大変でした。
丸山次人研究室での研究は、MATLAB(数値計算ソフトウェア)を行っています。タイで少し勉強しましたが、難しいです。
仙台では、大崎八幡宮に行きました。市内から歩いたので大変遠かったのですが、緑が多くとてもきれいでした。

タナポップ・トリーティップティクーンさん

タナポップ・トリーティップティクーンさん

Thanaphop Threethipthikoon

タイ

(タイ)

知能エレクトロニクス学科
泰日工業大学 交換留学生

日本の生活

愛称はオムで、意味は「お金が集まる」です。
クック先生の英会話の授業が一番楽しく、授業は英語なので理解しやすかったです。
ゴールデンウィークは東京に行き、築地の雰囲気はとても新鮮でした。渋谷に行って湯島天神でおみくじが大吉でした。大事にお財布に入れています。
小林正樹研究室では、LabVIEWのソフトを使い、ARMマイコンとセンサーの勉強をします。研究室の友人とはとても親しくなり、日本での生活は寂しくありませんでした。ホストファミリーはとても親切で、日本の料理をおいしくいただきました。

段 少陪さん

段 少陪さん

Duan Shaopei

中国

(中国)

大学院工学研究科建築学専攻
2013年4月入学、2015年3月卒業

私は段少陪です。中国瀋陽から来ました。中国で学部卒業した後、2013年3月に母国の先生から紹介いただき、仙台の東北工業大学に修士コースの勉強をしにきました。
仙台に来る前、私は東京で基礎な日本語を一年間勉強しました。東京の生活は忙しいでした、ストレスも多いでした。東京はアジアの最大都市として、繁栄、裕福です。但し、私にとっては静かな、快適な生活が私の理想的な暮らし環境です。
仙台に着いたところ、この清潔、安全な町を大好きになりました。きれいな河川、どこにもの森林、清潔な道路、安全な社会環境と美味しい料理、これらは私にとって理想的な暮らしところでした。
楽しい勉強生活ときれいな自然環境のみならず、人間環境はより快適でした。初めて異国にきて、周辺環境を了解しない私にとっては、先生と学友たちに助けてもらったことは最も大切でした。仙台に着いた日、研究室の先輩は暖かく迎えてくれました。私を連れて、学内配置と仙台市内の商業区域を紹介してもらいました。私はすぐに学校生活に慣れました。私の日本語能力がよくないのに、教授先生と助教先生から何回も関心問題を説明して、解決してくれました。学科の先生と留学生たちもよく挨拶してきて、具体事項を助けてもらいました。
日本語基礎が弱い私に対して、授業も難しいでした。先生らは、よく一つ問を説明したい時、時間をかかった場合があります。但し、先生と学生たちの理解と応援は私に学ぶための勇気と自信を与えました。研究室ゼミの雰囲気も積極です。皆さんは自分の意見と考えをシェアして、教授先生と助教先生は耳を傾けて、そして皆の配慮を答えます。これは私の初めの緊張を和らげました。そして修士二年生の生活に、中国と日本の研究方法と雰囲気は大分異なって、自身は従来研究目標に支配される方式に慣れたせいで、本研究室の「考え方を考える」という研究方法が慣れませんでしたから、よく困りましたが、先生はいつもどおり私に教えています、徐々に皆さんの助けてもらって、自身も適切な研究手段を見つかりました。問題があれば、先生と相談して、自分の考えと配慮をシェアします。このような、研究生活が滑らかに続いています。
諸先生の助力と自身の努力しで、日本文部科学省外国人留学生学習奨励費を支給されることになりました。これは私の生活によく助かりまして、財務状況のストレスを軽減しました。そして、より勉強時間があって、専門に関する教材も買えることになりました。これは自身の知識勉強と修士論文の作成に大変助かりました。
修士論文を作成中、知識備蓄が足りないため様々な問題が出てきました。しかし、先生と学友は助けて、先輩たちの以前の努力を基づいて、問題が全部解決られました。これはまた:私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです。
日本で、特に東北工業大学での生活は私が恩恵を受けました。ここでは、日本ならではの調和な社会環境、厳格な仕事、自由で開かれた学術雰囲気を体験しました。私は将来的に仕事での発揮、自身発展と故郷の建設、ここでの専門知識を活かすことができると信じています。

ワチャラウィット・ジエムジャイサワンルークさん

ワチャラウィット・ジエムジャイサワンルークさん

Watcharavit Jiemjaisawanglerk

タイ

(タイ)

クリエイティブデザイン学科 3年
泰日工業大学 自動車工学部3年 交換留学生

ニックネームはポンで、意味は「一番」です。
日本で新しい経験をたくさんしました。新しい車のデザインを日本で初めて見ました。タイで見ていた車とは異なったクラシックカーや電気自動車を見て、帰国後車のデザインの道に進みたいと思いました。また、空手とフットサル部に入部して新しい友達ができました。先生とチューターが優しく面倒を見てくれ安心して日本で生活できました。休みには大阪の海遊館に行き、とても美しいと感じました。タイでは展示している魚は少ないですが日本ではとても多く、友人ととても楽しい時間を過ごしました。
また機会があれば、ぜひ仙台に来たいです。

アティンシャー・シンボラノントさん

アティンシャー・シンボラノントさん

Arthinsha Shinvoranont

タイ

(タイ)

クリエイティブデザイン学科 3年
泰日工業大学 自動車工学部3年 交換留学生

ニックネームはヨンで、意味は「永久」です。
学外研修でトヨタ自動車のショールーム「メガウェブ」に行き、ハイブリッドや電気自動車、車の歴史などを視察しました。とても興味深く、車の部品のデザインの方面に進みたいと強く思いました。また、サッカー部とフットサル部にも行き、新しい友達がたくさんできました。
休みには、広島の弥山の頂上(厳島神社)に登り、とても疲れましたが、本当にきれいで感動しました。青葉祭りでは雀踊りを見ました。こちらも綺麗で楽しかったです。
さらに、トムヤンクンを作りホストマザーとファザーがおいしいと言ってくれたことが、とても嬉しかったです。
全ての日本での経験は忘れられません。

ニカノール・レイネス・ペリル・ジュニアさん

ニカノール・レイネス・ペリル・ジュニアさん

Nicanor Leynes Peril Jr.

フィリピン共和国

(フィリピン共和国)

キズナ強化プロジェクト訪日団
デ・ラ・サール大学ダスマリニャス・カヴィテ校
経営学部経営学専攻

被災地閖上を訪問して

私たちが閖上を訪問したのはとても寒い日でした。私たちは、被災地ではその地を襲った津波による壊滅的な被害から今も立ち直ろうとしている人たちがいるのだから言葉や振る舞いに気をつけなさい、と言われていました。それまでの日本での3日間は、豊かな日本文化、息をのむような美しい景色、ここでしか見ることのできない偉大なテクノロジーなど何もかもに魅了され、何もかもに興奮した楽しい体験でした。そのため閖上に向かうバスの中では、それでも襟を正さなくてはいけないと、少し複雑な気持ちでした。私たちは楽しく幸せな気持ちでいっぱいでしたが、閖上の方々に共感し、失礼のないようにしなくてはいけないと思っていました。

閖上には、もうすでに津波による瓦礫はありませんでした。復興への足掛かりはできていて、もう大丈夫のように見えました。悲しいことにすべての家が津波の強い力によって破壊されてしまったので、瓦礫とともに以前人が住んでいた家も片づけられていました。震災から約二年もたっているのに、そこには依然悲しみと独特な空気がありました。住民の皆さんにとっての家を失くすことの辛さや津波のあとの苦しみを感じ、愛する人を亡くされたことを大変気の毒に感じました。閖上を訪問している間、私たちは皆、心が揺さぶられました。語り部さんのお話を聴き、泥だらけになった思い出の品々を見て、涙をこらえている者もいました。思い出の品の中にあった、美しい家族、元気な子どもたち、素晴らしいコミュニティのたくさんの人々の写真を見ました。それが今ではすべて失われてしまい、悲しいことに家に帰ってくるのが怖いという人たちもたくさんいます。土地の価格もだいぶ下がってしまいました。

これらを直接見ることで、私たちは災害対策についての知識を深めることができました。またこのような災害にあったときには、コミュニティの中で私たち一人一人が助け合うのが大事だということがわかりました。閖上にはたくさんの悲しい出来事がありましたが、故郷に希望を持っている人々にお会いすることができたのはよかったです。語り部丹野祐子さんの、閖上の美しさを取り戻し、文化や生活を守っていくという主張に共感します。

私たちもまた、フィリピンに帰ったら私たちにできることをやっていきたいと思います。東日本大震災で何が起こったのか、フィリピンの人たちに本当のことを伝えます。また日本が防災や災害対策の点でいかに優れているかを伝えます。ここで学んだことを自国で応用できると思います。このプログラムに参加できて光栄です。そして新しい友人を作ることができてうれしく思います。

東北工業大学を訪問して

東北工業大学への訪問は素晴らしいものでした。学生さん方、先生方、スタッフの皆さんが私たちを温かく大変親切に迎え入れてくださったので、私はくつろいだ気持ちになれました。キャンパスツアーや講義はとても楽しく、学ぶところがありました。

沢田康次学長には、地震と原子力についてまた3月11日の東日本大震災について意義深い学びを得る機会をいただき、感謝いたします。私たちがこのような自然災害に対して十分に注意し、またその対応に尽力できるように、地震の被害がどれだけ甚大かを気づかせてくださいました。また石川善美教授には、東日本大震災への対応としてどんなことをしてきたかを教えていただき感謝しています。フィリピンは自然災害が多い国ですから、震災からの復興というのは私たちにとってとくに大事なテーマです。東北工業大学の皆さんによって作られた危機管理システムは、地震や津波、その他の自然災害時にコミュニティを支援することができる素晴らしいシステムです。また東北工業大学は防災に関する取り組みが行きわたっていると感じました。
耐震補強を施した建物や、コミュニティや住宅の耐震モデルがありました。そして小田内里美さんが発表された多機能防災玩具「つみきめっと」のことも忘れません。シンプルですがとても役に立つ革新的な玩具だと思いました。浅野宏正さんと小林花奈恵さんの、東北工業大学や仙台の文化行事についての発表にも感謝しています。この発表で仙台の豊かで美しい文化について知ることができました。藤田研究室を訪問させていただき、両腕のあるキャタピラ型のロボットを見ることができたのも楽しかったです。このロボットがさらに開発されて、将来人間を支援することができるよう期待しています。最後に、学食での昼食交流会はとても楽しかったです。とてもフレンドリーな日本の学生さんたちと仲良くなって、楽しい時間を過ごしました。

東北工業大学への訪問は、私たちにとって本当に素晴らしい機会でした。たくさんのことを学び、私たちのやるべきことを再認識し、豊かな日本の文化を楽しみ、新しい友人を作ることができました。私たちは、とくに非常時や災害時にコミュニティを支援するための様々なアイディアを研究開発している東北工業大学の学生の皆さん、先生方、スタッフの皆さんに尊敬の念を表します。

【動画】
◆ Kizuna (Bond) Project – The 1st Batch from the Philippines 2012 – Group A
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ジョン・マイケル・ムガスさん

ジョン・マイケル・ムガスさん

John Michael Mugas

フィリピン共和国

(フィリピン共和国)

キズナ強化プロジェクト訪日団
マリアノ・マルコス州立大学
経営学部マーケティング専攻

宮城県のファンになりました

震災から一年以上たった今もなお復興途上のつらい時期だと思いますが、そんな中でも日本の皆さんは私たちに平静さとは何かということをおしえてくれました。フィリピンでは人々が簡単なことでもパニックになる中で、日本の皆さんが震災に対して落ち着いて対応している様子は、適切な規律があり人々の心が一つになれば、国はまた立ち上がることができるということを私に気づかせてくれました。

震災が起こってから一年以上がたちます。復興が始まってからも一年以上がたちます。誰かを突然失った痛みは私にもとてもよくわかります。大事な人を失ったときの気持ちというのは言葉で表すことはできません。今できることは、亡くなった人の思い出を糧に前に進むこと、そしてそれを瓦礫の中から新たな気持ちで立ち上がるエネルギーに変えていくことだけです。

震災を経験して、宮城県の人々は一つになりました。震災の被害を前にして、復興のために一人ひとりができることをやろうとしている姿を見ました。そのような態度は復興に欠かすことができません。今日本では、すべてが復興や防災に向けられています。同じような災害が次にいつ起こるかわからないからです。震災が起こるのを防ぐことはできないと私たちは知っています。だからこそ備えが大切なのです。

宮城には二つの側面があります。県庁所在地である仙台の街は、華やかでライトやネオンが冬の寒い夜を踊るように照らしています。どこまでも続く長いアーケードがあり、人々は普通の生活をおくっています。仙台の街を歩いていると、まるで自分が日本の映画や村上春樹の小説の登場人物になったような気がしました。美しい街の中で我を忘れ、自分を見失ったかのような感覚になりました。日本に来るのは初めてですが、仙台は以前来たことがあるのかと思うほど、街の何もかもが自分にしっくりくるように感じました。仙台の人々に囲まれていると、何だか自分に近く感じて癒されました。人々から放たれるおもてなしの心の温かさは、私たちをまるで自分の家にいるかのようにくつろがせてくれます。お互いを理解するのに言葉の壁は障害になりませんでした。仙台の人々はその壁を打ち破って、誠実さをもって心から私たちに接してくれました。私にとっては、誠実な心は言葉よりも大切です。皆さんが私たちに心から接してくれたことで、お互いに理解し合うことができたからです。

宮城はまた、何もかもがなくなり、悲しみや空虚さ、かつて美しい場所だったところの苦い思い出だけが残る土地でもあります。今日、私たちは津波で壊滅的な被害を受けた名取市閖上を訪問しました。被災地にバスで近づくにつれ、テレビで見た3月11日の映像が私の頭の中によみがえり、飲み込まれそうになりました。かつてそこに家があり、人々が住んでいて、素晴らしい人生を夢見ていた場所だと知って私たちは暗い気持ちになりました。かつて幸せにあふれていたその場所が、今は何もなく、瓦礫や生涯続く痛みや心の傷だけが残されていました。では彼らは今どこへ行ってしまったのでしょうか。彼らの夢は取りあげられて、どこに行ってしまったのでしょうか。

その場所は、切り裂くような静けさに包まれていました。その場所に立つと、押し寄せる津波がすべてを飲み込んでいく様子が、そしてたくさんの人の命を奪い、家を奪っていく様子が目に浮かび、耳に聞こえてくるかのようでした。被災した語り部の方からお話をうかがいましたが、そのときのことを詳しく話すためには、その痛みをもう一度思い出さなければならないのだと思うと、とても悲しく打ちのめされたような気持ちになりました。それは何度お話ししてもつらいことだと思います。復興が順調に進んだとしても、震災のつらい記憶は被災した方の心にはっきりと残るでしょうし、彼らはそのようにして日々を生きていかなくてはなりません。ただ私は、いつかはその暗闇を抜けることができると知っています。また人に話すことによって、未来の世代の日本人の命を救うことになるということも知っています。人と分かち合ってこそ、震災以降背負っている背中の重荷をいつか下ろすことができるのだと思います。

震災の被害から立ち上がる日本の皆さんが、落ち着いていて平静であることに私は尊敬の念を覚え、それを忘れることはないと思います。

どんなに豊かな先進国であっても、災害は誰にでも起こりえます。ですから、この震災から学んだことを日本の皆さんだけでなく、世界中で学び災害対策に活かすべきだと思います。私はフィリピン人として、日本の皆さんと同じ気持ちを世界に伝えます。フィリピンは過去に自然災害を経験し、またこれからも経験することと思います。それを止めたいのは山々ですが、私たちにできるのは災害への備えをしておくことと、一人ひとりが自分の役割をきちんと果たすということだけです。よく言われるように、わずかな備えは、多くの治療にまさるのです。これは私が宮城県で学んだもっとも大切なことの一つです。

日本よ永遠なれ。日本はまた瓦礫の中から立ち上がることと思います。日の出ずる国なのですから。

【動画】
◆ Kizuna (Bond) Project – The 1st Batch from the Philippines 2012 – Group B
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ピーラウィット・ティーラカーンさん

ピーラウィット・ティーラカーンさん

Peerawit Theerakarn

タイ

(タイ)

知能エレクトロニクス学科 4年
泰日工業大学工学部コンピューター工学コース4年
交換留学生

始めましてピーラウィットともうします。タイから留学生です。今、工学部の4年生です。どうぞよろしくおねがいします。
タイでは、日本の価値観は多いです。例えば 漫画とアニメとコンピュータゲームとです。子供のとき、私はウルトラマンと仮面ライダーとスーパー戦隊とドラえもんが好きでした。私は高校を卒業した後,泰日工業大学に入学しました。そして、コンピューター工学部で勉強しました。私の大学では、みなで日本語を勉強します。大学に入学した後、私は日本に行きたいでした。日本来る前、私は2回に日本に行く機会を逃した。
日本に来た後、私は藤田先生の研究室に入りました。藤田の研究室はロボットの研究室です。私はタイのロボコンを優勝しました。そして、私は上海で国際のロボコンに出席しました。藤田先生は「君たちはマイコンを勉強してください」と言いました。今、私はマイコンを勉強しています。このマイコンの名前は「H8 3052F」です。このマイコンは研究室でロボットをコントロールします。研究室は友達が多かった。友達は私たちを世話してくれまして、友達は良い人です。先週、藤田先生と友達とお花見に行きました。楽しかったです。
ここでの授業はぜんぶ日本語で教えられて、難しかったです。タイではタイ語で授業を教えられていました。 将来私は日本で勉強すると思います。そして、私は日本語を勉強するべきと思います。
先月に私たちはチア部と卓球部と柔道部と弓道部と 合気道部に見に行きましたら、楽しくて、面白かったです。そして、私は七ヶ浜にボランティアにいきました。そして、お爺さんとお婆さんに足湯してあげました。津波の被災者は大変でした。でも、気力はたくさんありました。
寒いので、仙台は住むのに良い街と思いました。私は寒いが好きでした。仙台は色々デパートときれいな場所と食べ物があります。静かなので、私は八木山に住みたいです。仙台にはタイ人がいます。タイ人は東北大学の学生です。仙台はタイレストランがあります。そして、店長はタイ料理を作ることが上手です。晩翠草にこのレストランがあります。
ここでみんなさんは良い人です。毎週、私は土屋さんと黒沢さんにダイアリーと作文をチェックしてもらいました。勉強のとき、まさるさんは私たちに日本語から英語を訳してくれました。藤田先生は私たちを迎えに来ました。村口さんは私たちに面白い活動を紹介してくれました。村口さんの子供はかわいかったです。お母さんとお父さんはおいしい物をくれました。最後に、私は「ありがとうごさいました」と言いたいです。

ナットナリー・サミッチメディーンさん

ナットナリー・サミッチメディーンさん

Natnari Smitthimedhin

タイ

(タイ)

知能エレクトロニクス学科 4年
泰日工業大学工学部コンピューター工学コース4年
交換留学生

私はナットナリー サミッチメディーンと申します。ニックネームはビームです。 私はタイから留学生です。タイの泰日工業大学で勉強しているので、日本に来る機会がよくあります。私は3回日本に来たことがあります。大阪と青森に行っことがあり、今回は日本学生支援機構の私費外国人学習奨励費奨学金を頂いて、仙台で2ヶ月間勉強しています。東北工業大学八木山キャンパスで知能エレクトロ二クス学科の勉強をしました。八木山キャンパスは山の上にあるので美しい自然が沢山あります。それに、仙台は色々なお店やデパートなどがいっぱいあり、公共交通もかなり充実しているので、とても便利なところだと思います。
東北工業大学で津波と地震についても勉強しました。海の近くで強い地震が起こると、津波が起こる可能性があります。2011年03月11日に日本の大地震も海の中で起こり、津波が発生して、原発事故にもなり大惨事になりました。東北に住んでいる人はとても大変だったと思います。今でも仮設住宅にいる人が沢山います。私は七ヶ浜にボランティアに行きました。仮設住宅にいるお婆さんとお爺さんに足湯をしてあげました。みんなは元気がいっぱいあって、常に笑顔を見せてくれます。足湯をしてあげたあとみんなは幸せそうな顔で「また来てほしい」と言ってくれたので嬉しかったです。
私は仙台でホームステイをしています。お母さんとお父からいろいろなことを勉強しました。みんなはよく私の健康についても心配して生活面でも助けてくれて、私の本当の家族のようにしてくれたので、嬉しかったです。東北工業大学でも新しい友達が沢山できました。みんなは優しいし、いつも私が困った時には助けてくれました。例えば、授業のときは日本語で勉強していたのであまり内容が分からなかったのですが、みんながいつも分かりやすく教えてくれたのでだんだん分かるようになりました。
仙台では良い思い出が沢山出来ました。機会があれば、もう一度東北工業大学に行きたいと思います。

練 瓊さん

練 瓊さん

Lian Qiong

中国

(中国)

同済大学外国語学院日本語学科 大学院3年
交換留学生

今回「東日本大震災から学ぶ安全安心なまちづくり国際ワークショップ」というプログラムに参加させて頂きまして、誠にありがとうございます。
初めて日本に訪れたのは五年前のことでした。私は交換留学生として東京都町田市にある東京桜美林大学に留学しました。そこではきれいな町と親切な方々が非常に印象的でした。その頃から、 日本に対して好感を持つようになりました。そして再び日本の宮城県仙台市を訪れました。その頃は丁度震災前のことでしたが、東京とは全く違った雰囲気で自然に恵まれている「緑の都市」という印象を受けました。 またとても住み心地の良い所だと思いました。仙台は故郷である杭州の環境と似ているということもあり、その町に親近感を抱くようになりました。またいつか家族を連れて観光に行きたいと思っていた最中、あの大きな地震が起きてしまったのです。 ニュースで放送されていた地震と津波の映像は、目もあてられないほど痛ましかったのを今でも覚えています。放送を見ながら、そこで一つの大きな不安が急に頭を過りました。それは以前訪れていた学校や住んでいた町、食事をしたお店、そしてお世話になった方々のその後はどうなったのかということです。 過る思いを携えて同じアジアの人間として、微力ながらも日本の皆さんと一緒に頑張って日本を元気にして行きたいと思うようになりました。
今回の国際ワークショップに参加できるとあって、日本に訪れる三回目の機会を頂きました。一言でいえば、今回の旅は「驚きの旅」でした。まず、復興の速さに驚きました。飛行機に乗っている間は、少し仙台の様子を想像していました。そこは気候が寒く、町は静かで、歩いている人たちは皆マスクを着けているのではと考えていました。しかしその後仙台駅に着き、私は想像とまったく違った風景をそこで目の当たりにしました。建物も人々の笑顔も変わってはいないのです。 町を歩いていると、「東北、がんばろう!」、「私たちは負けない」と言ったスローガンがあちこちに書かれているのが目に入りました。この都市に訪れたひどい災害に負けぬよう、人々は物語っているようでした。 かつては津波によってほぼ全滅状態になってしまった空港も、今では再開して正常に運行するまでになりました。大震災から一年間も経たずに、ここまで復興できるということに驚きを隠せませんでした。そして、建物の丈夫さにも驚きました。あれほど強い地震で、建物が壊れた状況がほとんど見当たらないのです。特に病院においては、津波に襲われ、周りの家が流され廃嘘と化しても尚、しっかりと立っていたのです。
日本に来て私が最も感心したことは、皆さんの心の強さです。災害に負けず、すぐに立ち上がりこの町を再生させるため、町の人たちは一生懸命頑張っているということに今回の旅を通してひしひしと伝わってきました。例えば市役所の職員の方々は、より安心安全な町づくりができるように力を尽くしています。 また東北工業大学の皆さんも自分の学んだ知識を生かし、より住みやすい仮説住宅を提案し、復興に取り組んでいます。そこから私は見習うべきことがたくさんありますが、その中でも一番大切なことは何があっても、明けない夜はないと信じて、笑顔で生きていくことだと思います。
今回のプログラムは二週間だけの滞在でしたが、震災後の日本の状況をこの目で確かめることができました。日本は変わらず安心して勉強し、生活できる所だということが分かりました。仙台は「杜の都」と呼ばれ、空気も澄みわたり、食材も新鮮でおいしいと思います。訪れる前に両親が一番気掛かりだった放射線も健康に影響が及ばない程度のもので安心しました。また機会があれば、留学や観光をしに日本に、そして仙台に訪れたいと思っています。
最後になりますが、改めて東北工業大学の皆様に感謝の気持ちを申し上げ、終わりの言葉とさせて頂きます。

周 韜さん

周 韜さん

Zhou Tao

中国

(中国)

同済大学外国語学院日本語学科 大学院3年
交換留学生

知らずのうちに、今回のワークショップもいよいよ最終段階だ。初めて仙台市にやってき、神社での神頼みから発電所でのシステム見学まで、色々なものを体験し、思い出を沢山作ったが、一番印象深いのはやはり東北工業大学の学生たちとの出会いだと思う。
正直最初の自己紹介の折、少し気恥ずかしく、一体どうやって交流すればいいか、多少迷ったこともあったが、皆優しいので、間もなく友達になってくれた。日本語科の学生として、建築学に関わる内容や術語などにはあまり理解できないが、今まで勉強した日本語を利用し、皆と最大限の交流をしてみた。すると、家族の事情から自分の夢まで、色々な話題を巡り、語り合った。言葉は単なる道具でなく、例え国が違っても、人々の心をかける「橋」までにもなれるとは、多分それこそ言葉の不思議な力であろう。
日本と同じ、中国でも「百聞は一見に如かず」という諺(ことわざ)がある。(勿論その読み方は違う)以前来日したこともあるが、今回のワークショップを通し、やはり日本、特に仙台の文化や去年の東日本大震災などに対し、新しい認識ができた。今回の国際ワークショップに参加し、実によかったと思う。
今回のワークショップの後、東北工業大学の皆が私の大学へ短期留学しに来ると聞き、力を尽くし、新しく出来た友達を迎えたいと決心しながら、どうしても上海の魅力を皆に満喫させたいと思っている。今回は色々とお世話になったが、これからは私たちの「出番」である。

ジェラー・ジミー・パライゾンさん

ジェラー・ジミー・パライゾンさん

Gerard Jimmy Paraison

ハイチ共和国

(ハイチ共和国)

大学院通信工学専攻前期課程 2年

私はパライゾン・ジェラー・ジミーと申します。ハイチから参りました。文部科学省奨学金をいただいて、日本で勉強しています。日本へ来る前に、私は東北地方、わけても、自然が豊かな仙台市で勉強することになりました。仙台市に住んでいる留学生は伝統的な日本文化を学ぶことができて、美しい自然を享受することができます。仙台に来てホストファミリーができて、本当の家族のようになりました。私が日本文化を理解し特に伝統的な日本の美を楽しむことができるよう、イベントがあるときはいつもホストファミリーが私を連れて行ってくれます。
日本語研修後、東北工業大学の修士課程で情報通信を勉強しています。私の研究室では経験豊かで素晴らしい先生がいらっしゃって良かったです。先生は専門の領域にとどまらず人間関係の面でも優れた方です。先生のおかげで海外や国内の学会に論文を投稿することができました。わからないことがあると先生は的確かつ細かく指導してくださいます。優れた指導者に恵まれることは学ぶ上で最も必要なことです。
修士の勉強を修了した後、博士課程で研究を続けようと思っています。現在は工藤先生と安達先生のご指導でバーチャルセルラネットワーク(VCN)について研究しています。

<地震について>
私は大地震の前は研究室に夜11時や12時までいましたが、地震の後は夜9時までにし、その後は家に帰って勉強を続けています。地震の際深夜まで一人で研究室にいるのは少しこわいですから。朝9時半ごろ研究室に行って、勉強して、夜家に帰って、少し休んで、勉強を続けて寝ます。日本の建物を信頼しているので、それほど地震はこわくありません。でも、出かける前に電気を消して、ガスを止めて、家にいつも食べ物と水を用意するようになりました。それ以外に震災後の生活はほとんど変わっていません。研究室に通い続け、週末は友人たちと会ってサッカーをしたり、日本語の勉強をしたりしています。

顧 静さん

顧 静さん

Gu Zheng

中国

(中国)

安心安全生活デザイン学科2年

仙台はとても便利な都市である。店舗やデパートなどは遅くまでやっており、公共交通もかなり充実している。仙台の人々は非常に優しく、これはもう一つのメリットである。近隣の方々はとても親切で、新しく転居してきた私におもてなしに接して頂いた。東北工業大学はこのような便利・友情のこもった都市にある。
通常、留学生らは自ら海外のルール・規則を模索し、教育方法に適応していかなければならないが、工大の教職員の方々が色々なことを教えて頂き、一度も孤独になったことはなかった。本来ならば新しい環境に慣れるまでには時間がかかるが、先生方のお陰で、私はいち早くこの新しい環境に溶け込めた。今年は、大学の推薦で日本学生支援機構の私費外国人学習奨励費奨学金もいただいている。さらに、成績優秀者として東北?業?学の奨学?も獲得した。 機会があれば、もう一度、東北工業大学を選ぶだろう。

日常生活で、我々は沢山の危ない情勢に直面しなければならない。例えば地震のような自然災害がある。この時に、震災を経験した日本人からのアドバイスは、我々にとって非常に役に立つ。周りの人々から、私は多くのことを学ぶことができた。
世の中の人々にとって、2011年3月11日は、とても記憶に残る悲惨な一日となった。東日本では、数万に数えるほどの人々が亡くなって、津波により家が流された人々が多数いた。突然に来た地震が、私はパニックになった。幸い、身近の日本人が冷静沈着で、順番に避難をしていた。ビルの中にいた人々は沢山出てきて、交通機関も混乱した。
友人が「避難所に行きましょう」と誘ってくれたが、食料や水の確保がされるか疑問があり、また、我々外国人に関心持ってもらえるかどうかが心配であった。実は、このような心配は必要がないことが分かった。それは、ここに国籍の違いとは関係なく、人々が助け合い、お互いに励ましあっていたからである。私は日本人が他人に対して情がないと思っていたが、私は、ようやく日本人を理解しはじめたように思う。見た目は冷たいと思っていたが、心の中は、暖かく、非常に強いと感じる。

瞿 思遠さん

瞿 思遠さん

Qu Siyuan

中国

(中国)

建築学科1年

2008年の中国四川大地震小学校・住宅等の倒壊や悲惨な状況を見て、自分も何か出来ないか、そして、将来的に中国における安全で安心な建物の設計に貢献したいと思い建築学科を志望しました。
今年2月に東北工業大学工学部建築学科から合格通知が届きました。
3月11日に東日本大震災が発生しまして、当時、私は、東京の日本語専門学校に通っておりました。東京で津波によって助けを求める人が自宅に残っている様子や住宅が飲み込まれていく悲惨な状況をテレビで見て、何とか自分もボランティアをしたいと強く感じ、早く仙台に行きたいと思っておりました。家族や友人は心配して中国に帰国したほうがいいと言いましたが、4月5日に東京から仙台への高速バスが再開した直後、私は、東北工業大学のある宮城県仙台市太白区八木山にやって来ました。大学の学生課長、谷口さんの紹介で仙台に来た当日に、なんとかアパートを見つけることができ、大学近くの八木山に住むことができました。当時、八木山ではまだガスや水道のライフラインが復旧していませんでした。電気のみ通っていたので、大学から電子レンジを借りて、コンビニでお弁当やご飯、カレーを温めて、何とか毎日しのいでいました。水道も復旧していないので、シャワーも2週間入れませんでした。八木山に着いて1週間後に水道が復旧したので、電気ポットや電子レンジで水を温め、何とか洗髪だけはしておりました。
津波の被害が最も大きかった沿岸部へボランティアに行きたかったのですが、交通手段がなかったため、大学周辺で何か出来ないかと探し始めました。当時、東北工業大学は八木山地区の臨時給水所になっておりました。本学近辺の緑ヶ丘4丁目地区のお年よりの水汲みの運搬が困難なことを聞いて、本学ボランティア部の部員たちと一緒に大学の近辺でボランティア活動を約一ヶ月続けました。緑ヶ丘の給水所の近辺は、地面が割れ、ひどいところは段差が1メートル位生じておりました。お年寄りの住宅地から給水所は、急な坂道や地面が陥没している危険な場所を通らなければならない状況でした。リアカーにペットボトル等が入った水を載せ、ひび割れなどがある道路を迂回し、お年よりの家まで運搬するので、普段の倍以上の時間がかかってしまいました。このような運搬作業を半日に6回くらい繰り返しました。
震災により大学は5月に入学式になり、私が、まだ入学していない新入生だということがわかると、何人もの方々から、震災直後にわざわざボランティアのために仙台に来たことを大変驚かれました。 「本当に大変でした。ご自宅は大丈夫でしょうか。なにか不便なことはありますでしょうか。」と水を運ぶ際に声をかけました。被災に遭われたお年寄りに暖かい言葉で励ますことが、何より大事なことだと感じました。
給水所には、昼食時に、近隣の住民の方がおにぎりやお味噌汁の差し入れをもってきてくださり、余震が続き4月7日には震度5の地震が発生していたので、「中国の皆さんは地震に慣れていらっしゃいますか、大丈夫でしたか」と心配して聞かれました。
日本語専門学校では、日本人と交流する機会がとても少なかったのですが、震災時の仙台に来て、お年寄りや本学のボランティア部の部員と交流して、日本人の親切さや心の温かさを実感しました。
その後は、太白区の富沢体育館でもボランティア活動を続けました。
震災ボランティアでは、暖かい言葉をかけることにより、お年よりが癒され、感謝されて笑顔が見られることは何より嬉しいことでした。そして、このボランティアを通して、皆で力を合わせて、困難を乗り越えることがとても大切だと感じました。この震災のボランティア経験は、人のために活動でき自分自身が成長できたという自信につながっております。
6ヶ月経った現在は、ほぼ、通常通りの仙台となり、不便なことは感じません。私は、仙台を応援したいです。がんばれ仙台!東北工業大学!

サジャ・マニーシュ・カルティクさん

サジャ・マニーシュ・カルティクさん

Sajja Maneesh Karthik

インド

(インド)

知能エレクトロニクス学科卒業生

大阪電気電子専門学校を卒業して、2009年に東北工業大学に3年次編入をしました。この大学で電子工学の学位をとることが目標でした。当時は、日本政府による文部科学省奨学金を授与されておりました。
専門学校からの編入のため、卒業までにとるべき単位がたくさんありました。そのため1年目はとても忙しかったです。この大学では留学生が少ないので最初は寂しかったですが、部活の活動に誘ってくれる同じクラスの日本人学生たちと仲良くなりました。その他、大学の旅行として日本三景の一つである松島にも行きました。この旅行で他専攻の日本人や留学生と一緒に楽しい時間を過ごしました。数か月が経ち、たくさんの友人達にも恵まれ、いい成績でほとんどの科目を修めることができました。
2年目は阿部教授の研修室に所属し、将来に向けて新しい物質の研究をしました。また、大学祭の時他の研究室の学生と一緒に本格的なインドのカレーを作ったのは印象に残っています。カレーは好評のうちに売り切れました。大学の最後の日々は地震と津波のため悲しいものになりましたが、この大学の職員が学生の安全と安心のために最善を尽くしてくれたことに感謝し誇りに感じています。彼らは断水で困窮する周辺地域の人々に水の提供も行っていました。私はもっと勉強して日本で修士号をとりたかったので、阿部先生から推薦をもらって山形大学に進学しました。現在私はテラヘルツについて研究しています。
最後に、日本語の授業を理解するのに苦労する私を助けてくださった先生方に、この場をお借りして感謝申し上げます。先生方は英語の参考文献を貸してくださり、英語で試験を受けさせてくださいました。この大学で勉学し、いい友人たちと出会い素晴らしい時間を過ごした2年間は、私にとって大きな喜びとなりました。

パベル・ペニャさん

パベル・ペニャさん

Pavel Peña

ペルー共和国

(ペルー共和国)

大学院建築学専攻博士課程修了生

私は、ペルー出身のパベル・ぺニャと申します。東北工業大学卒業生です。私が卒業してから2年が経ちますが、このすばらしい大学について卒業生として私自身と私の経験を話す機会が与えられたことをとても光栄に感じております。
何年もの間、私は海外で研究をしたいと夢見ておりましたが、2004年、日本政府による名高い文部科学省の奨学金を授与されることになりました。東北工業大学はその知名度だけでなく、石井教授の研究分野が私の対象とする研究にとても適合していたという主な理由からも、とても魅力があるように感じました。最初から石井教授にコンタクトをとりました。教授は私がその当時本当に必要としたものを、完璧に支援してくださいました。東北工業大学では、とても順調に私の研究を展開することが出来ました。私は研究手段を与えられ、教授や職員による完全なる支援をしていただいておりました。それは、私の大変重要な学問上の目的のためだけでなく同様に私の日常的な問題においてです。その経験は、私自身を知り人生を豊かにするのに十分な可能性を与えてくれました。
東北工業大学のような比較的小さな大学では、その学生の資質にあった教育や、個人的な技術指導の支援を提供してもらえます。私はその施設の発展や、安全で快適な学際的な環境を学生に提供するための絶え間ない努力を目の当たりにしておりました。そして、その学際的な環境というのは、人生を豊かにすることができるほかの多くの課外活動を見出すことができる環境なのです。
確実に、日本の東北工業大学において研究したことは、私の人生ともっとも関連した経験になりました。大学で過ごした5年間のあらゆることが、とても重要な知識と経験を提供してくれたので、今では、専門的な職業に応募することができます。現在は、アメリカーテキサスにおけるとても重要な工業系の会社に就職しています。いつか、日本に残してきたすべてのすばらしい友人たちを、日本に戻って訪問したいと考えております。

熊 铱さん

熊 铱さん

Xiong Yi

中国

(中国)

経営コミュニケーション学科3年

日本に留学するなら東北工業大学はうってつけです。世界中の国々から集まった留学生と多くの交流の場を持つことが出来ます。お互いに勉強し合って成長していくことが楽しいです。 留学生といっても、大学での勉強だけではありません。大学側がたくさんのイベントを用意してあります。例えば、夏では登山したり、観光旅行したりします。また、春の桜や秋の紅葉も学内で見られます。東北工業大学に留学したおかげで、良い思い出がたくさん出来ました。確かに最初の頃、大学の授業や生活についていけるために、大変苦労しましたが、現在では多くの日本人と友達になり、大学生活を楽しんでいます。今、改めて、ここに来て良かったと思います。たとえ帰国しても東北工業大学での思い出を忘れません。