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※教員の所属・役職及び学生の学部・学科・学年は取材当時のものです。

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ラジオ 部族の太鼓

VOL.062 堀江 政広(産業デザイン学科)

私の専門分野は、情報デザインです。そして東北大学大学院情報科学研究科人間社会情報科学専攻のメディア文化論研究室で博士研究をしました。今回は、たくさんある堀江の趣味の中から「ラジオ」を専門性(情報デザインとメディア)とからめて紹介します。マーシャル・マクルーハン(1911年 – 1980年)が著書「メディア論(1964)」の中で、「ラジオ 部族の太鼓」を論じています。

「1950年代の西欧のティーンエイジャーたちは、部族的な特徴をいろいろと示し始めた。(中略)ティーンエイジャーにプライバシーを与え、同時に共同市場や歌や共鳴の世界の部族的絆を与える。(注1)」

ラジオパラダイス(三才ブックス、1990年1月号の表紙が川村かおりさん)

私にとっての「部族の太鼓」は「川村かおりのオールナイトニッポン(ニッポン放送、1989年4月15日-1991年6月1日)」です。川村かおり(注2)(1971年1月23日 – 2009年7月28日)さんはロックシンガーで、父親が日本人、母親がロシア人です。ここからは番組の中での彼女の呼称である「Kaori」とします。Kaoriを初めて知ったのは同じくニッポン放送「HITACHI FAN! FUN! TODAY」のゲスト出演時(1998年冬)です。この時にラジオから流れた「ZOO(注3)」に感銘してCDを購入し、コンサートやライブに足を運びました。翌年からオールナイトニッポンの土曜二部のパーソナリティになると知った時は大喜びしました。

番組がスタートした時代は、ソビエト連邦の最高指導者のソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフ(1931年 – 2022年)によるペレストロイカ(改革)が進められていました。番組ではリスナーからのソ連についての質問についてKaoriが答え、当時はあまり報道されないソ連についての情報を得られる、貴重な機会でもありました。東西冷戦の中では西側の情報はテレビから大量に流れてきていましたが、東側の情報はごくわずかで、しかもその情報の大半がネガティブなものでした。

Kaoriがゴルバチョフ書記長に会って(注4)、リスナーからのゴルバチョフ書記長への手紙を手渡したいという企画「ゴルバチョフへの手紙(注5)」がスタートしました。その一環としてソビエト連邦大使館での大使館員の子供たちとのスポーツ交流の企画され「スポーツ大会」のメンバー募集があり、私はリスナー代表の1人として参加しました。スポーツの種目は、バレーボールとサッカーです。番組側は「ソ連といえばバレー強国」ということでバレーにしたとのことでした。ところがソ連の学校ではバレーをあまりしないということを大使館側との打ち合わせで知り、最も人気のあるサッカーも加えたそうです。

1990年4月12日に訪れた東京都港区六本木にあるソ連大使館の高い壁は異様で、厳重なセキュリティを抜ける時にはとても緊張しました。大使館内の廊下は薄暗く、更衣室として用意された部屋も照明が消されていました。理由を聞くと、省エネルギー対策のためでした。当時はバブル景気で、その浮かれ具合の象徴の1つが六本木のディスコでしたので、非常に対照的でした。

Kaoriのタレント性もあり、試合はとても盛り上がりました。大使館員の方々も子供たちも常に笑顔で、試合後はとても楽しく話しました。実際にロシア人と会ってみると、テレビニュースや映画で感じるソ連という国家のネガティブなイメージとは違うと感じました。

2日後の1990年4月14日深夜の生放送では録音されたスポーツ大会の様子と、大使館でのエピソードがKaoriから語られました。アナウンサーの実況はさすがで、私達リスナーの珍プレーや応援を面白おかしく伝えていました。スポーツ大会についての話はもう終わりかな、というタイミングで「今から堀江君に電話しちゃおうか!」とKaoriの声がラジオから聴こえました。家庭用固定電話しか無い時代です。電話機は1階の両親の寝室にあります。2階の自室から飛び出して階段を駆け下り、「Kaoriのオールナイトニッポンから電話が来るっっっ!!!」と叫びながら、両親の寝室に飛び込みました。両親は何事が起こっているのか全く理解できていない様子です。程なくして電話のベルが鳴り、受話器を取るとディレクターの「堀江、ラジオ聴いてた?」との声に「ハイッ!」と答えると電話がスタジオのKaoriに繋がり、興奮と緊張が混在しながらKaoriと大使館での出来事について話しました。近くには両親が眠そうに布団に潜り込んでいます。

その後、大使館の子供たちと直接交流するようになりました。これは、スポーツ大会に一緒に参加した女性リスナーのコミュニケーション能力のおかげです。大使館で行われた第2回のスポーツ大会(1990年10月10日)では、私たち第1回のメンバーは大使館からの招待で見学しました。私が大使館の子供たちと第1回のメンバーを撮影するために、持参したAF一眼レフカメラ(Canon EOS 620)を構えていたところ、ディレクターから声をかけられました。「Kaoriにレンズを向けないように注意されるのかな?」と不安になりながらも平静を装っていると、「新聞社のカメラマンが急遽来られなくなったので撮影して欲しい」とのことでした。写真はニッポン放送の広報にも使われ、スポーツ新聞にも掲載されました。

1991年8月19日にソ連でゴルバチョフ書記長に対してのクーデーターが起こります。このクーデーター時に、Kaoriはオールナイトニッポン特番のパーソナリティを務め、ゴルバ長書記長とモスクワ市民の身を案じていました。クーデターは失敗し、その後にソ連が崩壊します。1991年の暮れに大使館の子供たちからのお誘いで大使館主催のクリスマスパーティーに出席した時、ソ連大使館だった看板はロシア大使館になっていました。そこにはテレビのニュースで観るロシアとは違った、明るいロシアの子供たちの姿がありました。ロシア大使館の子供たちは日本から離れていくために交流が途絶えてしまいましたが、大使館で会ったリスナー達との親交は、部族の太鼓であったラジオ「川村かおりのオールナイトニッポン」の終了後も続きます。

Kaoriは2009年7月28日に早世しました。2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻してから、1年が経ちました。最後に、Kaoriの1991年3月にリリースされたアルバム「Church」の収録曲「戦争が起きたら(作詞・作曲:Kaori)」の歌詞の一節を引用します。

” 戦争が起きたら 君はどうするのかな ”

注1:栗原裕・河本仲聖訳「メディア論――人間の拡張の諸相」、みすず書房、 1987年、p. 314, l. 6
注2:1998年に川村カオリに芸名を改名
注3:1988年11月2日デビュー・シングルとしてリリース、同年11月21日にアルバム「ZOO」をリリース
注4:1991年4月に来日したゴルバチョフ書記長と面会、海部俊樹(1931年 – 2022年)内閣総理大臣に晩餐会に招待される
注5:ミハイル・ゴルバチョフ著、田中直毅訳「ペレストロイカ」、講談社、1987、読者に考えを知らせて欲しいと呼びかけ、世界中から送られた手紙は12万通を超える

メイン画像:第2回のスポーツ大会(撮影者:堀江政広、番組担当ディレクターの依頼により撮影)

堀江 政広 教授

専門は情報デザインです。特にアプリケーションソフトウェアのUX(ユーザーエクスペリエンス)デザインと、デザイナーとソフトウェアエンジニアとの協調を研究対象としています。そしてUXデザインのためのワークショップをデザイン・実践しています。

堀江研究室

研究室の主なデザイン対象は人々のコミュニケーションのためのアプリケーションソフトウェア、ゲーム、ワークショップです。近年の研究室の産学連携の取組みでは、「子育て中のパパを対象とした対話型ワークショップ『パパのびワークショップ』」のデザイン・実践、MR用ヘッドマウントディスプレイを利用した遊びをデザイン・開発をしています。

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