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随筆「あの頃の工大」

創設時を回想した随筆「あの頃の工大」が、「工大広報」no.86/昭和57(1982)年6月から昭和59(1984)年6月までの10回にわたって連載されました。この度の創立50週年の機会に、ご紹介いたします。


創設ごろの工大と私(1):東北工業大学名誉教授(当時)吉田賢坑

「工大広報」no.87/昭和57(1982)年7月19日号より

 東北工業大学の創設に関与したので、その当時の憶い出を書くのである。私立大学についての私見を混じえてご批評を資に供えたい。ご笑読いただきたい。

東北工業大学名誉教授 吉田賢抗

東北工業大学名誉教授
第一号の吉田賢抗先生

立派な大学の構想

 昭和38年5月。東北工業大学初代学長の宮城音五郎先生と、学校法人東北工業大学事務局長の常務理事岸田清氏のご来訪を受けたのは、東北大学川内分校の主事室であった。東北大学はまだ教養部をおかないで、川内分校と称し、今の教養部長にあたる仕事を分校主事が担当していた。私はその主事で、教養部の独立や、予算獲得の折衝で駈けまわっていた。宮城先生と岸田常務理事の話では、明春4月東北工業大学を開校するから、教養部長として学長補佐の仕事に就任せんかとのことであった。私は大学の構想と、運営資金に就いてお尋ねした。郵政互助会というその当時で100億の資力団体からの低利出資で造る大学で、電子・通信の二学科を置き、5年目には大学院を併置、間口は狭くとも奥行きの深い大学にしたいとの構想。そして八木山に30万坪の大学法人の山林を買ってあるから造成分譲して資金源とする。入学金その他学生の負担は極力低廉にして、学び易い、気持ちよい大学を造りたいというすばらしい話あった。私は高等教育の仕事に強い念願を持っていたが、資金で苦労したり、学生の重圧になる学資金を徴集する運営では、思う存分の教育ができないと考えていたので、この話なら東北工大の前途は洋々たるものと確信して、喜んでご招聘を受諾した。

開学の日と入学式

 その後間もなく、本館の地鎮祭に出席せよとのご案内があったので参上、今の正門を入ると右側の松林の中に、多角形の地割りをした場所に、地鎮祭の注連縄が張ってあって、白い紙が風に揺れているのを見て、一風変わった本館だなと、強い印象をうけた記憶がある。
 昭和39年4月1日開学。本館3階の研究室へ案内された。教室群に近く、南方は開豁、鬱蒼たる松林の丘陵地帯、遥かに太白山の秀峰がくっきりと蒼天に輝く、素晴らしい展望で、都塵と騒音から隔絶した学園だった。この本館の2階に学長室、学長は81歳の高齢ながら前東北大学教授、工学部長だった機械工学の権威で元宮城県知事の宮城音五郎先生。理事長は郵政事務次官だった宮本武夫氏、事務局長は常務理事の岸田清氏で、この階に法人事務系の部屋があった。1階は教務・学生・庶務の三課で、5月1日から就任した藤田寿一事務長を中心とし、現役で今も活躍している現学生課長の岸田宮三氏ら10余名の事務員で、今の充実した東北工大の大陣容からみると子供部屋のような世帯だったと今昔の感に堪えない。教授陣は、教養部長の吉田賢抗(倫理学)、矢部威(数学)、柴田林之助(化学)のたった3人で、助教授は大友信一(国語)、佐々木養二(法学)、松田和良(社会学)、酒井倫夫(英語)、志賀亮(物理学)、それに専門学科の準備をした加藤晋輔(通信工学)の6人、非常勤8名という微少さであった。

 4月15日、本館屋上での落成式は盛大であった。4月20日が第1回目の入学式。入学式で新入生に記念講演をきかせた。その当時参与であった東北大学工学部教授の和田正信氏(固体電子工学)にお願いしたと記憶している。翌40年の入学式は東北大学工学部教授の加藤多喜雄氏の講演だったと、思っているが、このごろの入学式には記念講演はないようだ。入学を記念して印象に残るようないい話を聞かせることは、学生の全人教育上大切なことだと思うが、このごろは入学式さえやらないで、学長の顔を知らせないまま教育をはじめる大学もあるようだ。変わった時代だ。

「いい人間」の教育

 翌4月21日から授業開始。学生が少ないので電子通信合併講義。私は倫理学の第1回の講義で、東北工大の特色を樹立せよと強調した。私学は国立大学と異なった特色を持つことが重要だ、第1回生はその基礎を築く責任がある。東北工大の特色は何にするか。いろいろあろうが、私は「いい人間になった工学知識人」を提唱した。創立が古く、教授陣容や設備の完備した国公立や古い私学卒業生の上に頭を出すことはなかなか困難と思うが、「いい人間」になることは誰でも出来る。心がけ一つで可能だ。東北工大卒業生は、学力は勿論だが「人間はいい、人柄は善い」の定評が得られる大学にしようではないか。是非そうなりたいと屢々口にした。その後東北工大は大きくなり、内容も充実したようだが、「卒業生はいい人間だ」の評が得られたか、どうか。創設の仕事をした一人として忘れられないので問いかけてみたい。

文部省にほめられる

 大学創設の仕事は大変だった。学則諸規定、何一つも出来ていない。このごろは無くなったようだが、学生部長は学生訓育上最も大切な役職だと思うので、老練な矢部教授が担当。教務の仕事は教養部長兼務として私が当たったが、四年制大学の専門課程と教養学科をどう組ませるか。東北大学などの旧帝大系は、主として入学から1年半を教養科目に重点をおき、2年次の後半から一部の専門科目を履修させていたが、私は4年通年制をとり、教養科目でも哲学系などは4年次に入れ、専門科目の概論的なものを1年寺に繰り入れた。入学試験も、このごろはどの大学でもやり出したが、推薦入学をはじめ、小論文と学科の試験を施行した。昭和40年秋に来学した文部省視察員(時の静岡大学学長渡辺寧氏と文部事務官2名)からほめられたことを覚えている。その他いろいろあるが、ともかく大変だった。(後略)
※吉田賢抗氏:創設当時教養部長、倫理学教授、後に本学名誉教授第1号となる。

随筆「あの頃の工大」(2)〜(10)

当時の工大広報を、画像でご覧いただけます。

工大広報 NO.270

(2)no.087:4,5

1982年7月19日発行

工大広報 NO.269

(3)no.088:3

1982年10月25日発行

工大広報 NO.269

(4)no.089:5,6

1982年11月17日発行

工大広報 NO.269

(5)no.090:4

1983年1月28日発行

工大広報 NO.269

(6)no.092:4

1983年5月20日発行

工大広報 NO.269

(7)no.093:3

1983年6月20日発行

工大広報 NO.269

(8)no.096:4

1983年7月20日発行

工大広報 NO.269

(9)no.97:4

1983年11月25日発行

工大広報 NO.269

(10)no.100:2

1984年6月20日発行

工大広報 NO.269

(11)no.101:4

1984年7月20日発行

■「工大広報」の第1号が創刊

 「工大広報」の第1号が創刊されたのは、大学創立から5年後の昭和44(1969)年6月。タイプライターで植字したガリ版印刷といういかにも不慣れな仕様でしたが、記事を読めば、電子・通信学科では、求人依頼が電々公社、NHK、家電メーカーなど250社にも上り、既に日本電気、日立、松下、沖電気ソニーなど一流企業への就職内定者があったっことを告げています。

■「工大広報」の第1号が創刊

■八木山の風景

「工大広報」no.58/昭和53(1978)年6月15日
工大広報で初めて「八木山の風景」というスケッチの連載がはじまりました。筆者は工業意匠学科の杉山寿助教授(当時)です。

八木山の風景

また、no.64/昭和54(1979)年5月24日には、本学の校章や校旗をデザインした工業意匠学科の角田専一郎助教授(当時)が、デザインした創立当時の思い出を随想で語っています。

八木山の風景

■メタセコイヤ

 工大広報no.94/昭和58(1983)年7月20日号には、電子通信工学科の榎本 幹講師(当時)が、開学10周年を記念して昭和49(1974)年11月に植樹したメタセコイヤについて寄稿しています。
 八木山キャンパス1号館傍で、いつの時代も本学学生を見守ってきた本学のメタセコイヤは、これまで植え替えられたり、紆余曲折があったようです。ぜひ、来学してその成長ぶりをご覧ください。

  • メタセコイヤ
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メタセコイヤ

 

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最終更新日 2016年4月7日